サンディエゴ日本人教会 San Diego Japanese Christian Church
『御翼の陰に生きた女性達』大倉 信 牧師

『御翼の陰に生きた女性達』大倉 信 牧師

May 9, 2021

五年前、教会の方達とイスラエルを訪れました時、死海の目の前に建つホテルに宿泊しました。窓から眺める死海の対岸はヨルダン領土となり、その場所は古代にはモアブと呼ばれていた土地でした。そんなモアブの山を眺めながら、その時、ある女性に思いを寄せました。「あの場所が彼女の故郷、こんなに近くまで来たのだなー」とその時、感慨にふけたのを忘れることができません。
その女性とはルツであり、彼女の名前は聖書のルツ記の名前となりました。彼女はイスラエル人ではなく異国モアブ出身の女性だったのです。ルツが生きた時代は今から3000年も前でしたが、今を生きる私達に彼女の生涯はとても大切なことを語りかけます。今日は「母の日」、ルツの物語が私達の物語となりますように祈ります。

 

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『愛で始まり、愛の中を生き、愛で終わる』大倉 信 牧師

『愛で始まり、愛の中を生き、愛で終わる』大倉 信 牧師

May 2, 2021

ある映画監督が言いました「人生のバッターボックスに立ったら、見送りの三振だけはするな」。
サンディエゴ・パドレスのゲームを観ている私の姿を見て、家族は笑います。スクリーンに向かって私が声をあげるからです。どんな時に私は声を上げるのでしょうか。「なんで、そこで見送るの!どうせアウトになるのなら、思いきり振って、三振しようよ!」バッターとして一番悔しいのは空振り三振をすることではなく、見送り三振をすることだと私は思うのです。
自分で選んだのではない、神に愛され与えられた人生、その人生の道すがらも私達に注がれる神の愛、そして、その人生の最後、もろ手をあげて私達の帰りを待っていてくださる神の愛、人生のバッターボックスに立っている私達がもし、このことを知っているのなら、主にある兄弟姉妹、見送りの三振だけはやめようではありませんか。このご愛に思いきり応えるべく、打席に立ち続けようではありませんか。

 

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『「感謝する心」が明日を拓く』大倉 信 牧師

『「感謝する心」が明日を拓く』大倉 信 牧師

April 25, 2021

小学生の頃、「もしお前の願いが一つ、かなえられるとしたら何が欲しい?」とよく友達の間で話しました。ある者は「ギアつきの自転車」が欲しいと言い、ある者は「野球チームのレギュラーポジション」を取りたいと言いました。私はそんな時、いつも答えました。「魔法のランプ!」。なぜ魔法のランプなのか。私は思ったのです。魔法のランプがあれば、一度限りではなく、いつでも何でも手に入ると。
ある時、同じ質問が大人達に投げかけられました。「もし、あなたの願いが一つ叶うとしたら何を願いますか」ある者は「マイホーム」と言い、ある者は「会社での昇進」と答えました。人が願い求めるものは幼い時も大人になっても、あまり変わりがありません。「自転車」が「マイホーム」になり、「レギュラー」が「部長」となりました。しかし、その中で一人の人がこう言いました。
「私が既に持っているもの、与えられているもの全てに対して、心からの感謝を捧げることができるようにと願います・・・」。

 

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『聞かれない 祈りについて』大倉 信 牧師

『聞かれない 祈りについて』大倉 信 牧師

April 18, 2021

人生を50年も生きていますと、私にはいくつもの叶えられなかった祈りがあったことに気がつかされます。そして、それらを振り返ります時に、それらのことについて今、私は思いがけない、自分でも驚く思いを持っていることに気がつきます。何だか分かりますか?
「あぁーあの祈りがあのまま叶えられなくてよかったなー」という安堵の思いです。あの時にあの祈りが叶えられていたらと思うと、今頃・・・。
「求めよ、そうすれば与えられるであろう」(マタイ7章7節)という言葉に従い、ある方は、我が子を願っている学校に進学することを祈っているかもしれません。しかし、その願っている学校に行く事はできずに、その子が全く願っていないような進路に歩み出すなんてことが人生にはあります。
祈っても、私達の祈りが聞かれない時があるということは、どういうことなのでしょうか。私達日本人には「本音と建前」というものがありますが、今日は建前ではなく、本音の部分からこの祈りについて見ていきたく願っています。

 

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『天を相手に生きる喜び!』大倉 信 牧師

『天を相手に生きる喜び!』大倉 信 牧師

April 11, 2021

「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5章16節)。
この言葉に内心、違和感を覚える方がいるのではないかと想像します。「そんなことはできない」という違和感です。そうです、私達は「いつも」という言葉に心が引っかかるのです。
ある日、車のオイル交換に行きました。「終わったら連絡するよ」と言われて帰宅したのですが、連絡はなく、取りに行けば、オイル交換は既に終わっており、代金を払って鍵さえもらえれば帰れるのに、目の前にいる私を前に店員は電話で長話をしていて、待てども暮らせども一向に電話が終わるようには思えません。私は思わず左手を彼の前に掲げ、右手で時計を指差したのです。明らかにその時に私の心から喜びは失われていました。
数年前、ホームレスの方が朝、教会を訪ねてきました。その方は常連の人で、いつも電話を貸してくれと言います。電話で話していると、その話し相手に大声で耳をふさぎたくなるような荒々しい言葉を怒鳴り散らしています。一日の始まりの朝だというのに、私の心から喜びが奪い去られていくのがよく分かりました・・・。
はたして「いつも喜びなさい」ということは私達に可能なのでしょうか。

 

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『私たちは実の終わりを知っている - We Know the True Ending』本多 一米 牧師 Pastor Ichibei Honda

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April 4, 2021

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『悔いのない人生を生きたい』大倉 信 牧師

『悔いのない人生を生きたい』大倉 信 牧師

March 28, 2021
エルサレムには聖墳墓教会という教会があります。そこはイエス・キリストが十字架につけられたゴルゴダの丘の上に建てられたと言われている教会です。その場所が当時のゴルゴダの丘だろうと裏づけられた理由は、その丘から十字架刑に使われたと思われる朽ちた木々、その中には人の手首の肉片がそのまま釘付けにされた木片が発見されたからだというのです。 十字架に磔にされる者達とは犯罪者ですから、その死体が丁重に扱われることはなく、まさしくその遺体は引きちぎられるようにして処理され、その手首の肉片はそのまま木につけられたまま放置されていたのでしょう。それが十字架という刑なのです。私達はこの十字架を信仰のシンボルとしているのです。
 
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『壁越しではなく、垣根越しに』大倉 信 牧師

『壁越しではなく、垣根越しに』大倉 信 牧師

March 21, 2021

メキシコとの国境に行きますとそこには高い壁が建っています。その壁はとても高いもので、こちらからあちらをうかがうことができません。中にはその壁の上に痛々しい針金が巻いてあるところもあります。なぜなら、私達は観光に来ているわけではなく、向こう側を見る必要はありませんし、何よりもその壁は互いに行き来ができないようにという目的のために、そこに建てられているからです。
私の住んでいる家とお隣の家の間には、いわゆる塀というものはなく、腰ほどまでの垣根で互いが隔たれています。ですから、お隣が日向ぼっこしたり、芝を刈っている姿が見えます。そんな間柄ですから、私は時々、庭で垣根越しにお隣さんと会話をすることがあります。その時、私達は互いに顔の表情を見ながら、しかし、垣根が互いの間にあるので互いの土地に入ることなく、話すことができます。そして、必要であればしかるべき入り口を使って、互いの了承のもとに垣根を越えて行きして、いつでも隣同士、助け合うことができるのです。
私達は互いを大切にするために、リスペクトするために境界(バウンデリー)が必要です。しかし、それはそびえたつ壁なのではなく、垣根なのです。

 

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『与えましょう、与えられます』大倉 信 牧師

『与えましょう、与えられます』大倉 信 牧師

March 14, 2021

日本語には以心伝心という言葉があります。「言わなくても分かりあっている」のだから、口に出すなんて野暮なことなのだと私達は言います。「何も言わないけれど、心の中では喜んでいるんですよ、感謝しているんですよ」って、本人はそれで完結しているのでしょうが、そこで完結してしまうのは何ともったいないことなのかと思います。
そもそも私達は神様がその御心を内に込めているだけではなく、その御心を言葉によって私達に語りかけてくださいましたゆえに、救いにあずかり、このバイブルと共にこの人生を渡り歩いていくことができるのです。今を生きる意味とその指針を、そして神の愛というものを、私達は神の言葉によって知ることができるのです。
素直に嬉しい事があったり、ありがたいなと思うことがあるのなら、しんどさの中を生きている方が目の前にいるのなら、私達の思いを表情に、そして、その思いを言葉で言い表すことができるのなら、そのことがおよぼす祝福は、それこそ言葉では言い表せないほど大きいのです・・・。

 

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『私が変わります』大倉 信 牧師

『私が変わります』大倉 信 牧師

March 7, 2021

ジョン・ドレッシャーという牧師が「若い父親のための10章」という本を書いています(いのちのことば社)。その中で師は「家族のために祈るのをやめること」という一見、耳を疑うようなことを書いています。いったいドレッシャー牧師は何を言わんとしたのでしょうか。
師は「それまでの私の祈りはこんなふうでした」と自分の祈りについて告白しています。「主よ、どうか私の息子を良い子にしてください。彼の態度がよくなるように、あなたの愛を注いでください。息子が従順になり、それによって家族の関係がうまくいくようにしていください。娘がキリストの愛を知り、成長するにつれ、色々な人間関係の中で何が真の愛なのかを理解できる者としてくださるようにしてください。妻が子供達に忍耐し、彼女が家庭を穏やかに保つことができるように、主婦としての義務を果たすことが出来るように。忙しさに負けないように」。
ところが師はある夜、ひとりでいた時、突然、これまで祈っていたような祈りはやめねばならないと思ったというのです。このような祈りは意味がないと感じたというのです。当時、どういうわけか子供達は、幼い頃よりも、愛についてわからなくなってきており、思いやりや親切といった性格も以前より失われていたというのです。その時に、師は自分が見当違いの祈りをしていることに気がついたというのです。一体、師は何に気がついたのでしょうか・・・。

 

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