Episodes

Sunday Sep 24, 2017
『本当の奇跡』 大倉 信 師
Sunday Sep 24, 2017
Sunday Sep 24, 2017
もし私が取っ手が壊れたコーヒーカップをグルーで直したら、皆さんは「なんという奇跡!」と言いますか。いいえ、決して言わないでしょう。でも、もし切り落とされた耳を拾い上げ、それをその人の耳にその場で元のようにつけ直したら、それを私達は奇跡と呼びますでしょう。そう、このことはイエス・キリストが実際にゲッセマネの園でなされたことです。
大騒ぎしている子供達を大声で叱り、子供達が静粛になったら、それを奇跡と呼びますか。いいえ、でももし、嵐によって荒れ狂う湖を「静まれ」という一言と共に静めたら私達はそれは奇跡だと言いますでしょう。そう、このこともイエス・キリストがガリラヤ湖でなされたことです。
私達はこのような癒し、自然界への超人的な介入を驚き怪しみ、それは奇跡だといいます。しかし、どうぞお心におとめください、神の側からいえば、それは奇跡ではありません。そうです、神の側では、それは切り落とされた耳を瞬時に癒すことは私達がカップを直すようなこと、嵐を静めることも子供を静粛にするようなことであり、それらは神の目には全く奇跡ではないのです。しかしなぜ、私達がそれらを奇跡と呼ぶのかというと、それは私達の人知を超えたことであり、人間の力をはるかに凌駕している出来事だからです。しかし、それは明らかに神の能力を超えたものではなく、神にとってこれらのことはたやすく、当たり前になすことができることなのです。

Sunday Sep 10, 2017
『救いは勝ち取るものではありません』 大倉 信 師
Sunday Sep 10, 2017
Sunday Sep 10, 2017
クリスチャン作家のフィリップ・ヤンシーはこんな言葉を残しています「天国に行くには何をしなければならないかと聞けば、たいていの人は「良いことをしなさい」と答える。イエスの話はその答えと矛盾する。私達がしなければならないことは「赦して、助けて」と叫ぶ事なのです。

Monday Sep 04, 2017
『責任を転嫁せず、開き直らず』 大倉 信 師
Monday Sep 04, 2017
Monday Sep 04, 2017
「今日、モールに行ったけれど、パーキングスペースがなかったのよ。一生懸命お祈りしたけれど、神様は聞いてくれなかったわ。神様なんていないのよ」。
このようなことは極端なことでしょうか。いいえ、けっこう私達はこのようなことで問題を神のせいにしているということがあるのです。
おぼえてください、神様は私達のためにバレットパーキングで働く人ではありません。パーキングスペースがないのは、その日が週末だったかもしれないし、その日がセールの日だったのかもしれません。そして、そんなに日にモールに行こうと決めてやってきたのは私達であり、パーキングスペースがないのは神のせいではなく、モールに来たくて来た私達が受け止めるべき現実なのです。
この責任を自ら、引き受けることなくして神と私達の関係が健全なものとなることはないのです。

Sunday Aug 27, 2017
『新しい契約を心に刻む』 大倉 信 師
Sunday Aug 27, 2017
Sunday Aug 27, 2017
「法律」とは人間がこの複雑な社会にあって自らを律するために自分達で作ったものでありまして、この米国も日本もこの法律が国を治める法治国家であります。この法のもとに大統領も一般市民も置かれています。しかし、しばしばこの法は破られます。
法律に似た者として誓約というものがあります。国に対する誓約、結婚の誓約、そして大統領就任式における誓約。結婚と大統領就任式に関して言えば、その制約は人間に向けてなされるのではなく神の前になされるものです。しかし、人はこの誓約をも守ることができません。

Sunday Aug 20, 2017
『裁くことから解放されたい』 大倉 信 師
Sunday Aug 20, 2017
Sunday Aug 20, 2017
ヨハネによる福音書4章にはイエスがサマリアのスカルの井戸で一人の女に出会ったことが記録されています。二人の間に会話がなされ、この女について一つのことが明らかになりました。それは「彼女にはかつて5人の夫がいたが、今、共にいるのは正式な自分の夫ではない」ということでした。
このような話を聞くと、私達は色々なことを想像します。ある人はこの女性に対して「なんとルーズな人なのか」とか「なんと飽きっぽいのか」と思われるかもしれません。そして、このような場合、人が考えるイメージは決していいものではありません。
しかし、私達は一つのことを忘れています。それは、この女性に対して私達が知っていることは「かつて彼女には五人の夫がいて、イエスと出会った時には別の男性と暮らしている」ということだけなのです。その女の名前すら聖書は記録しておらず、その女の生まれはどこで、どんな親に育てられ、五人の男達はどんな者達であったのか、子供はいるのか、今、付き合っている男とはどんないきさつがあったのか、これらのことについては何も私達は知りません。しかし、私たちは「かつて5人の夫がいて、今は・・・」などと聞くと、鬼の首を取ったかのように「この女は・・・」と断言的なことを言い始めるのです。裁きが始まるのです。私達の評価とかジャッジメントというのはこのような状況でなされているのです。

Sunday Aug 13, 2017
『心の闇を自覚する』 大倉 信 師
Sunday Aug 13, 2017
Sunday Aug 13, 2017
「あの人のレンズはそうとうに汚れているわ。早く気がついて、きれいにしてくれないかしら。自分でしないのなら、私がしてあげるわ・・・」
でも、その前に自分のレンズがきれいなのかを確認することは賢明なことであり、まずはそうすべきでありましょう・・・。まず私達が取り組むべきことは自らの心にある闇の自覚であり、このことから目を背けては、光に照らされて光の中を歩みだすことはできないのです。

Sunday Aug 06, 2017
Sunday Aug 06, 2017
クリスチャン精神科医の工藤信夫先生はその著書の中で興味深いことを書いています。すなわち、先生は「健全な不信仰というものがあることを私達は知っていていいのではないだろうか」というのです。工藤先生はその著書の中でこう書いているのです「実際、ここに至ってもう語ってもよいと思うので、あえて申し上げるのであるが、私の信仰生活の20年間を支えたものは、あのよく引用される聖書のみことば「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(ピリピ4:4)などという類のものとは程遠いものであった。
そして、工藤先生は言います「いつも迷っていたし、悩んでいた。そして、その時に私の心にあったのは、はたして神は本当に全ての事態に関与しておられるのだろうか」という問いであった。しかし、今言えることは、こうした神に対する素朴な疑問と探究心こそが、私を神に向かわし、その関係を強固なものとしたということである。いわば、つぶやきや不平が私の信仰を豊かにしたのである(「信仰による人間疎外」いのちのことば社 工藤信夫 )。

Sunday Jul 30, 2017
『見た人は伝える(信仰は見透かす力)』 - 大川道雄 師
Sunday Jul 30, 2017
Sunday Jul 30, 2017
「あなたのスリルとサスペンス物語」その2
~ルカの福音書と使徒行伝を通して~
聖書にあることはわたしたちの人生の信仰生活の中に具現させれる。
マリヤさんが聖霊によって主イエスを身ごもったように、信じる人の中に聖霊によってキリストの形が造られていく神秘です。

Sunday Jul 23, 2017
『おしになった祭司(=沈黙)』 大川道雄 師
Sunday Jul 23, 2017
Sunday Jul 23, 2017
「あなたのスリルとサスペンス物語」その1
聖書は私たちの信仰人生のカガミです。ルカさんは医者です。「シャーロックホームズ」は医者のコナンドイル作です。
それでルカさんが書いた、ルカによる福音書と使徒行伝はまさにスリルとサスペンスの宝庫です。それが信じる人に移っていくのが、聖書のミステリーです。

Sunday Jul 16, 2017
『ダイナマイト!』 大倉 信 師 (日英両語 Bilingual Message)
Sunday Jul 16, 2017
Sunday Jul 16, 2017
ある科学者がある物質と他のものを化合するという実験をしていました。そうしましたら、実験室が爆破されてしまいました。彼は自分は「とんでもないものを発明してしまった」と思ったそうです。そして、彼はその発明したものにこのローマ人への手紙1章16節の「デュナミス」という名前をつけました。今日、私達はその発明品をダイナマイトと呼びます。そう、この科学者とはノーベル賞の名前にもなったアルフレッド・ノーベルです。
この「デュナミス」は先ほど読みましたコリント第一の手紙1章18節において「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」と書かれている「神の力」に使われているギリシア語です。
私たちがイエス・キリストの十字架の前にありのままの自分で立つ時に、本来、固い岩のような心を持つ私たちの魂の奥底において、このキリストの愚かさというダイナマイトがその心を砕き、イエスにある救いが明らかにされるのです・・・。