Episodes

Sunday Dec 03, 2017
『私達が今、生きている世界とは?』大倉 信 師
Sunday Dec 03, 2017
Sunday Dec 03, 2017
先日、牧師会でテキサスの教会で起きた銃撃事件のことを話し合いました。「なぜ、あんなことが・・・」あのようなことが教会で起きるなんて「神はいるのか」。必ず、出てくる言葉です。人間はこれからどうなっていくのだ。この世の中はどうなっているのだ。こんなことは今まではなかったのだと私達は思うのです。しかし、聖書を読めば分かります。このようなことをこれまでもしてきたのが人間であり、これからも人間は同じようなことをし続けるのです。テキサスで起きたことは前代未聞のことではなく、あのようなことは人類が始まって以来、いつもあるのです。昔と今の違いは、かつては心にある怒りを人は石を拾って怒りの矛先に投げていました。棒を拾ってそれを振り上げていました。その人の手に今日はライフルがあるということです。ただその違いです。人の心は昔も今も何ら変わらず、この事実故にこれからも私達の間からうめきがなくなることはないのです。

Sunday Nov 26, 2017
『あなたはわが子、そのことが嬉しい!』大倉 信 師
Sunday Nov 26, 2017
Sunday Nov 26, 2017
我が子おもちゃのシャベルを使いながら砂山を作っています。一生懸命、それに没頭しているのですが、時々、何かを思い出したように顔を挙げて、周りを見回します。そう、彼は父親を探しているのです。そして、父親と目が合うと安心してまた砂山作りに没頭します。そう、彼は父の眼差しの中に自分はいるのだと確認し、それが分かると何も心配しないでまた遊びます。
砂場に飽きると遊具で遊び始めます。しかし、そこは他の子供達も遊ぶ場であり、色々なチャレンジがあります。時にブランコの取り合いがなされ、その戦いに破れますと、唇をかみして今にも泣きだしそうです。そして、また周りを見回します。何を探しているのでしょうか。そうです、父です。そして、父を認めるといよいよ我慢していた涙が頬を流れ落ち、そこに走り寄ります。彼が歩み寄る前に私もその子の元に駆け寄り、息子を思いきり抱きしめるのです。
皆さん、クリスチャンライフは砂場で遊ぶこの子供のようなものです。彼はそこで思い思いに自由に遊んでいました。なぜ、彼は何も心配なく自由に遊べたのか、なぜなら、すぐ側のベンチでは父親がその子を優しく見つめていたからです。そして、彼が痛い思いをした時、彼は涙をためながら、はばかることなく彼の「ダディ」に近づいたのです。そして、ダディは彼を抱きしめたのです。

Sunday Nov 19, 2017
『感謝の根本を変える』大倉 信 師
Sunday Nov 19, 2017
Sunday Nov 19, 2017
今日、私達は見えるものによって支配されて生きています。昨日、一日を振り返ってみてください。私達は何によって喜び、悲しみ、笑い、また怒りましたか。その多くは私達が見聞きしたものです。このことは私達の家庭でも教会でも職場でも私達が行く先々どこであっても私達が日々、直面することなのです。
学校の合格発表で自分の名前を見つけた時、目の前に無理やり割り込んでくる車を見る時、カーテンを開くとどしゃぶりの雨であるような時、子供が自分の願うような服装をしていないような時、私達の心は何を感じているでしょうか。
そこで、今日、このサンクスギビング礼拝において注目したいことは、目に見えるものだけに反応して感謝をするなということです。すなわち、私達にはもう一つの世界があり、その見えない世界で起きていることに感謝する生き方というものに私達の生き方をシフトしていこうということをお話ししたいのです。そうです、それはすなわち今日のタイトルにありますように「私達の感謝の根本を変える」ということです。

Sunday Nov 12, 2017
『聖霊の助けを見過ごさない』 大倉 信 師
Sunday Nov 12, 2017
Sunday Nov 12, 2017
もし皆さんが愛する家族とこの世で最後の食事をする時、何をその食卓で語りますか。言うまでもなく、その場は彼らに直接、語ることができる最後のチャンスなのですから、どうでもいいことは話しませんし、どうしても彼らに伝えたいことを語るでしょう。そのような場面がイエス・キリストの生涯にもありました。
そうです、イエス・キリストが十字架にかかる前夜、弟子達と最後の食事をした時のことです。そう、私達が俗に言います「最後の晩餐」の食卓の席です。ご存知ですか、イエス様が弟子達と引き離される直前、イエス様はその食卓で四度、繰り返しある約束を彼らに語ったのです・・・。

Sunday Nov 05, 2017
Sunday Nov 05, 2017
イエス様のことを偉大な教師、あるいは世界有数の宗教家の一人として片づけてしまう人々がいます。しかし「約束」という面でイエスの言葉と他の宗教家、哲学者のリーダーを比較してみると興味深いことが分かります。たとえば、仏教の開祖、釈迦はその最期の時に、弟子達に別れを告げて「自らを灯とせよ」と言いました。ソクラテスが毒杯を仰ごうとした時には、弟子の一人が自分達は孤児になってしまうと嘆いた。世界の宗教や哲学の指導者は、自分が彼らを離れて行く時、自分は決して彼らと離れないと約束することがありませんでした。
しかし、興味深いことにイエス様は、たとえ弟子達の前を去らねばならなくなっても、彼らを置き去りにしませんでした。イエス様はヨハネ14章18節において「私はあなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻ってくるのです」と言われました・・・。

Sunday Oct 29, 2017
『増し加わる恵み』 大倉 信 師
Sunday Oct 29, 2017
Sunday Oct 29, 2017
ユダヤの知恵文学の一つにシラ書というものがあり、そこにはこんなことが書かれています。
「はじめに神は人を創造され、その人を性(さが)の力に委ねられた。すなわち、それは我々が欲するならば神の戒めを守ることができるということを意味する。このことを実現するのは我々の忠実な決断と実行による。神は我々に悪をなすなと命じ、我々が罪を犯す免許を与えてはいない。神は我々に律法を防腐剤として与え、もし我々がその律法に心を傾けるのなら、悪の衝動に陥ることはない。神は人を創造された時、人の内に愛情と気質とを植えつけ、聖なる知性を我々の王座につかせられた」
書いていることは正論でありましょう。しかし、実際のところこのことは頭で分かっていながらも実行することはできないものです。そのことをしっかりと自覚していたのがパウロであり、そんな内なる自覚を隠し通すこともできたでしょうが、パウロはその心の中の赤裸々な自分の姿についてローマ7章で書いています。聖書は建前の書ではなく、本音が満ちている本です。

Sunday Oct 22, 2017
Sunday Oct 22, 2017
「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終りがあり、生きている者が、それを心に留めるようになるからだ」(伝道の書6章2節)
イスラエルの三代目の王ソロモンは祝宴の家に行くよりも、喪中の家に行くことを望みました。なぜなら、そのことによって自分には終わりがあるということを知るからです。そして、このことに対して備えよと聖書は私たちに語りかけます。その備えは私達がどこに葬られるかということではなく、あなたはその時、どこに行くのかということであります。聖書の約束は私達、キリストにあって死んだ者は、彼と共に葬られたのであり、その葬られた私たちはキリストと共に新しい命に永遠に生きることができるというのです。
「あなたがたは代価を払って買い取られたのだ。それだから、自分の体をもって、神の栄光をあらわしなさい」(Ⅰコリント6章20節)
私達はキリストにあって罪に死んだ者なのだとパウロは言います。そして、今はこの世界を神と共に生きている者であり、故に私達はキリストにあって代価を払って買い取られた自身をもって神の栄光をあらわすべく今を生きる者であると聖書はいいます。

Sunday Oct 15, 2017
Sunday Oct 15, 2017
以前、私がまだ小学生の頃、私は近くを流れる川でよく泳いだり、魚をとって遊びました。40年以上も前のことなので、川もある程度は澄んでいました。ある日のこと、いつものようにその川に遊びに行くと、いつもは澄んでいる水が茶色に濁っているのです。何事かと思いきや、それはその川の上流で工事がなされており、大量の赤土が川に流れ込んだためであるということを知りました。その日は川で遊ぶことなく家に帰ったことを覚えています。そして、あちこちに土砂により水の中の酸素がなくなってしまったのでしょうか、魚達が水面にパクパクとその口を広げていました。中には白い腹を見せて水面に浮かんでいるものもいました。
その光景はアダムを源流とする今日の私達の世界のようにも思えます。日毎の生活を生きるのがシンドイ、霊的な精神的な呼吸困難に陥ってしまう。そして、聖書が書いているように、そんな私達の終局は死なのです。

Sunday Oct 08, 2017
『祈りは神との対話』 大川道雄 師
Sunday Oct 08, 2017
Sunday Oct 08, 2017
人は祈ります。人だけが祈りをします。誰に祈るのでしょうか? 本当に誰が聞いてくれるのでしょうか? 祈りとは神がそこにおられ、祈りに耳を傾けていてくださるという<自覚>と<確信>です。

Sunday Oct 01, 2017
『私達が求める平和と希望とは?』 大倉 信 師
Sunday Oct 01, 2017
Sunday Oct 01, 2017
平和と唱えられるもの、希望と呼ばれるようなものが私達の世界にはあります。しかし、その多くは何と時間的に、地理的に、状況的に限定的なものでしょうか。それらに対して、キリストがくださる平安はこの世のものとは異なり、その希望は決して失望に終わることがないのです。