Episodes

Sunday Sep 02, 2018
神に喜んで頂く生き方』大倉 信 師
Sunday Sep 02, 2018
Sunday Sep 02, 2018
沖永良部という離島の教会におりました時、その島ではじゃがいもを生産・出荷していました。その季節になりますと「これが今年の初ものです」と言って島の人が届けてくれました。私達が何かをいただく時、それが「初もの」であると聞くと、喜びと感謝がさらに大きくなります。
それは初ものが特別おいしいということよりも(確かにそれもあるでしょうが)、自分の畑で獲れた最初のものを手にした時に、その方が私達の顔を思い浮かべてくださって、「これはあの人にまず食べてもらおう」と思ってくれた、それが私達は嬉しいのです。私達はその方の心に感謝し、それを心から喜びます。

Sunday Aug 26, 2018
『神を遠くに感じる時』大倉 信 師
Sunday Aug 26, 2018
Sunday Aug 26, 2018
私たちが現実の世界を見ます時に「なぜ、自分や家族、あるいは親しい友にこんなに辛く悲しいことが起きるのだろうか」という事に向き合うことがあります。
ヨブ記の主人公、ヨブもそのような境遇に置かれました。聖書によると、彼の人となりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかっていました(ヨブ1章1節)。そんなヨブは、ある日を境に全てのものを失いました。すなわち、彼の豊かに祝されていた全ての財産、彼の10人の子供達、妻との信頼関係、そして果てには、彼は自分の健康をも損ない、これらと共に、それまでの自分の名声をも全て失いました。信仰深く、人々から一目置かれる素晴らしい人格も備えていたであろう、このヨブにこのようなことが起きたということを私達はどう受け止めればいいのでしょうか。
「神様が遠くに感じられる」。こんなことを感じた方、いないでしょうか。もしかしたら、今、そう感じている方がいるかもしれません。今日はこれらのことに対して幾つかのことを見ていきたいと思うのです。

Sunday Aug 19, 2018
『神との友情を育む』大倉 信 師
Sunday Aug 19, 2018
Sunday Aug 19, 2018
イエス・キリストはかつて言われました。
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」(マタイ9章12節)。
キリストは「私は病人のために来た」と言われました。でも、私達は思いませんか、この言葉をそのまま受けとると、そうなのか、この世界には「病人」と「健常者」と二種類の人間がいるのかと。そして、大抵、私達は自分は健やかな者なのだと思うのです。
肉体的であれ、精神的であれ、病んでいる人と向き合う医師達が口を揃えていうことは、患者が自分は病んでいるのだということに気がつく、自分には治療が必要なのだということを自覚するところから治療は始まるということです。
「そんなことは当たり前だ」と私達は思いますが、けっこうこのことに気がつかない、自覚しない、いや、確かに病んでいても医師に会おうとしない人はたくさんいるのです。そして、当然、その間に病状はさらに悪くなってしまうのです。
もちろん、イエス様が言われている病人とは私達の肉体的な病を指しているのではありません。ここで主イエスが言わんとしていることは、たとえばこういうことです。「あいつには問題がある。こいつにも問題がある。あいつにもこいつにも、教えられなければならないことがある。指摘されて、直さなければならないものがあるのだ。でも、俺にはそのようなものはなく、自分の判断や、言動はきわめて全うなものだ」
確かに人は自己診断において自分は病人ではないと思うかもしれない。しかし、神の前に人は誰でも指摘されること、直さなければならないものがあるとイエス様はここで言っているのです。

Sunday Aug 12, 2018
『私の友だから知らせよう』大倉 信 師
Sunday Aug 12, 2018
Sunday Aug 12, 2018
50年ほどの自分の人生を振り返り、また牧師として多くの方達の人生と接する機会が与えられている中で、気がつかされていることがあります。それは私達がその人生の中でなす「決断」の大切さということです。
誰もが毎日、何かしらの決断をします。「決断」と言いますと大げさに聞こえるかもしれませんが、今日はどの靴をはこうかと考え、一つの靴を選ぶというこも、ある意味、私達の決断でありましょう。
靴を選ぶことは重大なことではありませんが、私達が日々成す決断により、物事が動きます。その物事が動くことにより、私達はある所に導かれていきます。そんな決断を無数にして、今、現在、行きついてるのが今朝の私達です。そうです、私達は多くの決断に導かれて、今、ここにあるのです。そして、この私達の決断により、これからの私達の人生も導かれていくのです・・・。

Sunday Aug 05, 2018
『成長し続けるために』大倉 信 師
Sunday Aug 05, 2018
Sunday Aug 05, 2018
種から芽が出て、やがて実が実るということを考えてみましょう。私の家では生ごみをコンテイナーに入れて、それを肥やしにして用いています。今年の春、そんな肥料を土に混ぜて苗や種を植えたのですが、それらの苗や種よりも力強く、生ごみとして捨てていたカボチャの種が芽を出し、今、大きなカボチャが実りつつあります。
自然界には神様が定められた法則というものがありまして、私達はこの法則にのっとって動いています。そして、それは私達の生き方というものにも当てはまるのです。その法則とは「よい土壌に蒔かれた種はやがておのずと芽を出し、実を実らせる」ということです。この法則にのっとって、このカボチャの種は芽を出し、実を実らせました。
そうです、私達が注目すべきことは、その種がどんな土壌に蒔かれたかということです。その土壌に十分な養分があるのなら、その植物は育ちます。しかし、そうでないなら、どんなに良い種を蒔いたり、苗を植えて、毎日、欠かさずに水を注いでも育つことがありません。まず肝心なことは土壌です。これは蒔く、植える前の成長の大前提です。

Sunday Jul 29, 2018
『こうして神は私達を用いる』大倉 信 師
Sunday Jul 29, 2018
Sunday Jul 29, 2018
母の恩師で米田豊という先生がいました。この先生は東京聖書学院の教授として重責を担われ、東京新宿にある西落合教会という教会の牧師として生涯を歩みました。米田先生の生涯は苦難に満ちていました。先生には8人も子供がいましたが、その内の6人を亡くすという生涯で、昭和のヨブと人は先生を呼びました。
ある時、ある牧師の子供がまだ、幼児なのに亡くなりました。周りのいかなる人の慰めも力がありませんでした。
しかし、この米田先生が一言も言葉を言わず、ただ先生の肩に手を置いたそうです。それだけでその先生は大きな慰めと励ましを受けたというのです。

Sunday Jul 22, 2018

Sunday Jul 15, 2018
『タラントは埋めておかない』大倉 信 師
Sunday Jul 15, 2018
Sunday Jul 15, 2018
目に見える成果が何も感じられない時。何の実りもないように思える時。確かに目の前に成果という実を見ることができないかもしれません。しかし、そんな日は目には見えませんが、やがて実が実る日がくることを信じて、目には見えませんが、地中深く根をはる時として信仰をもって受け止める。その時はまだ実りの収穫の時ではないと理解し、さらなる実りを得るために今は地中深く根をはる時なのだということを神様の視点は私達に教えてくれるのです。
同時に常にではありませんが、物事がうまくいくというような時も私達は経験することがあります。その時は私達にとりまして心地よく、そのままその時が続いてほしいと願いますが、それもつかの間、打ち寄せる波のようにすぐにまた色々な現実に向き合います。
「晴れている時こそ、屋根を修理すべきだ」という言葉を聞いたことがあります。晴れているから、その晴れ間を十分に楽しんだらいいでしょう。しかし、晴れているからこそ、その間に、必ずめぐってくる雨にも備える。晴れている時を賢く用い、雨が降る時にも備えるのです。

Sunday Jul 08, 2018
『神の視点』大倉 信 師
Sunday Jul 08, 2018
Sunday Jul 08, 2018
スイスの哲学者、アンリ・フレデリック・アミエル(Henri Frédéric Amiel )は言いました「精神生活のない人間は環境の奴隷だ」"The man who has no inner-life is a slave to his surroundings."。なるほどど思います。私なりにこの「精神生活」を「神を心に留める生活」として、こう言い変えてみました「神の視点をもたない人間は環境の奴隷だ」。

Sunday Jul 01, 2018
『神の栄光のために』大倉 信 師
Sunday Jul 01, 2018
Sunday Jul 01, 2018
今日、多くの若者が世界を放浪しています。かつては私もその一人でした。今から28年前、私はインドのプリ―という小さな漁村にいました。ツアー客が立ち寄るような場所ではない、それこそ一泊1ドルほどの宿にステイしていました。そこに数日いた時、なんと同じ宿に日本人のおじさんも宿泊していることを知ったのです。見たからに日本人なので話しかけますと、誰でも知っているような大きな企業を10日前に辞めて、一人で旅に出ているという働きざかりの50前後の方でした。深い話しはしませんでしたが、仕事を辞めて、こんな誰も来ないような所に仕事をやめて来ているその方と話しながら、色々と考えるところがあるんだろうなーとその時、思ったことを今でも覚えています。
そして、今、おじさんと近い年となり思うのです。きっとあの方は学校を出て、就職して、ふと、これからの人生について深く考えてしまったのではないかと。すなわち「この俺の人生は何のためにあるのだ」というような心からわきあがってくる問いかけに真正面から向き合ってしまったのではないかと思うのです。このようなことに考えがおよんでも、そのことを深く考えずに、素通りしてしまえば、その場を立ち去ることができたと思うのですが、彼はその内なる問いをごまかすことができずに、旅に出たのではないかと今、想像しています。
回りの者達は50にもなって、そんなことをするのは愚かだと忠告してくれたかもしれませんが、このおじさんは誰もがその人生で一度や二度は考え、しかしながら見て見ぬふりをしていることを、実際に探求すべく、リスクを承知で、旅に出たのです。このような思いは若い頃のみならず、齢を重ねていくにあたり、いいえ、その人生の晩年になっても私達の心のどこかに引っかかっていることではないでしょうか。