Episodes

Sunday Nov 04, 2018
『神の御業を見た人達』大倉 信 師
Sunday Nov 04, 2018
Sunday Nov 04, 2018
私は明らかに「このことをこの方は心から願っているんだろうな」と思われることに対して「これは神様のみ心だと思いますから従います」というような報告を聞くことが度々、あります。しかし「このことは私の願っていることではないのですが、神様のみ心はそちらにあるようなのです。だから、従います」という言葉は、ほとんど聞くことがないのです・・・。
・・・このことは自分の願いがあまりにも強いと、神の御心を聞き逃してしまい、神の御心をも自分の決断を後押しするものとして利用してしまうことを私達はしてしまうということを示しています。

Sunday Oct 28, 2018
『最後に残るもの』大倉 信 師
Sunday Oct 28, 2018
Sunday Oct 28, 2018
私は27年前、インドのカルカッタにあるサルベーションアーミーにしばらく宿泊していたことがあります。大部屋に30ぐらいのバンクベッドがあって、私のベッドの横はブリキのトタンを挟んだストリートで、外の喧騒がいつも伝わってきました。まさしく安宿とはこのような宿のことを言うのであって、当時、一泊70セントぐらいだったかと思います。
自分が寝ている横を人が行き来しているのですから、常に人の気配を感じます。そして、朝になると必ず起こされるかけ声がありました。「チャーイ!、チャーイ!」とおじさんがミルクティーを大声で売っているのです。
そんな声に起こされて、ストリートに出ますと、あちこちで湯気がたち、そのチャイが売られています。その時に小さな素焼きのカップに並々と一杯3セントほどのチャイを注いでくれます。濃厚なミルクティーの味は、どんな高級なカフェで飲むものよりもおいしく感じました・・・。

Sunday Oct 21, 2018
『プロセスを大切にされる神』大倉 信 師
Sunday Oct 21, 2018
Sunday Oct 21, 2018
若い夫婦の口から出る言葉を一日録音してみれば、おそらく明らかになることがあります。彼らは一日に何度、子供に向かい「早くしなさい」と言っているかということです。朝食の時、「早く食べなさい」、玄関口で、「早く靴をはきなさい」。学校まで車で送っていけば、「早く、降りなさい」と言い残し、迎えに行けば「早く乗りなさい」。家に帰ればすかさず「早く宿題をしなさい」、シャワーから出れば「早く頭を乾かしなさい」。そして、極めつけは一日の最後の言葉です。「早く寝なさい」。そう、私達は「早く起きなさい」で一日をはじめ、「早く寝なさい」で一日を終えるのです。よくよく考えたら、このことはすごいことだと思いませんか。あたかも人生があと三週間しか残されていないので、時間を無駄にするなと言っているかのようです。これでは家庭も学校も職場もストップウォッチをもった記録員と共にいる陸上競技場にいるようなものです。昔、「狭い日本、そんなに急いでどこに行く」という看板をよく日本で見かけましたが、まことにそのとおり、私達はそんなに早く、どこに向かっているのでしょうか。何をそんなに急いでいるのでしょうか・・・。

Sunday Oct 14, 2018
『誘惑から守られるために』大倉 信 師
Sunday Oct 14, 2018
Sunday Oct 14, 2018
その生涯、多くの働きをなして社会に貢献し、家庭を支え、歩んできた方が、その人生最後のステージ、すなわち、そのゴールまであともう少しというところで、誘惑にあい、それに陥り、それまで自分が築きあげたものを全て失ってしまうというようなことを時々、私達は見聞きします。何もそれは人生の晩年に限ったことではなくて、今日のアメリカではその誘惑は既にエレメンタリーに行く子供の中にもあります。高校生ともなれば、その誘惑は大人が受ける誘惑とほぼ同じ、いや彼らが直面しているものは大人以上であると言っても過言ではありません。もし、私達がその全容を知ったら目まいがして倒れてしまうかもしれません。

Sunday Oct 07, 2018
『喜んで弱さを誇ろう』大倉 信 師
Sunday Oct 07, 2018
Sunday Oct 07, 2018
スポーツジムに行きますと多くの方達が鏡の前で重いものを持ち上げています。人は自ら苦労して重いものを運ばなくていいようにトラックやエレベーターを発明しましたが、おもしろいことに、ジムにいる人達はこめかみの血管が切れるような真っ赤な顔をしながら、何度も何度も重いものを持ち上げたり、降ろしたりしています。
私達が日常の生活の中で持ち上げなければならない物というのは限られていますので、明らかに彼らの筋肉は日常生活には必要のないものに思われます。でも彼らはせっせと体を大きくします。そうです、「筋肉」とは「力」と「強さ」の象徴と思われるているからです(ちなみにジムでこのようなトレーニングをしている9割の人は男達です。昔から今も、男はどこかで強さと力を求めているようです)。
さて今朝、私達が考えたいことは、人間とはそもそもそんなに強い者なのかということです。10年がんばって身に着けた筋肉も一本の鉄パイプに勝つことはできませんでしょう。人前で国家天下を語り、大言壮語(たいげんそうご)しておりながら、車のパーキングチケットを切られただけで落ち込んだり、自分で固く決意したことも三日ともたないことがよくあるのです。実に人の弱さをあげるのなら、それはきりがありません。

Sunday Sep 30, 2018
『現実的な状況で語られている言葉』大倉 信 師
Sunday Sep 30, 2018
Sunday Sep 30, 2018
時々、聞きます。「あの人には何の問題もなく、幸せそうでいいねー」。皆さんの周りにも、そのように思われる人達がもしかしたら、いるかもしれません。
「牧師」という仕事の一つは一見、そんな「何の苦労もなく幸せそうねー」と思われる方達の悩みを聴くことです。そして、そのような中で思わされていることがあるのです。それは人が抱えている悩みというものは決して他者が知り得るものではないといことです。
理想的な夫婦、親子だと人に思われていながら、しかし、現実は誰にも言えない悩みを抱えていることがあるのです。ですから、今は心に刻んでいます。「あの人には何の問題もなく、幸せそうでいいねー」などと誰が言えようかと。聖書の御言葉にあるように、私達は皆、自分の重荷を負いながら、日々を歩んでいるのです。

Sunday Sep 23, 2018
『婚宴に備える教会』大倉 信 師
Sunday Sep 23, 2018
Sunday Sep 23, 2018
‟もし教会には偽善者が満ちているという理由であなたが教会に行かないのなら、教会は聖徒達が居並ぶ博物館なのではなく、罪人のための病院であるということを思い起こしてください”。
サドルバック教会の主任牧師であるリック・ウォーレン牧師はこんな一文をその著書に記しています。
「あなたは一生かかっても完全な教会を見つけることはできないでしょう。神がそうしておられるように、あなたも不完全な罪人たちを愛するように召されているのです」 (「パーパス・ドリブンチャーチ」)
『イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです』(イエス・キリスト)

Monday Sep 17, 2018
Monday Sep 17, 2018
子供達、若者達、これからの皆さんの人生は時に心が揺さぶられるでしょう。なぜなら、皆さんはこれから色々なものを見聞きすることになるからです。
皆さんよりかっこいい人、かわいい子、皆さんより足の速い子、皆さんより成績のいい子、皆さんよりクールなスニーカーをはいている子、きりがない。あのスパイたちが敵は自分達をいなごのように見ていると言ったように、自分が友達からどう見られているか、これらのことは君たちの人生につきまとうでしょう。
皆さんはこれらのことに振り回されて人生の大半を過ごすことになるかもしれません。そうです、皆さん自分の人生をコントロールするのではなくて、これから見聞きするものが皆さんの人生をコントロールする可能性が大いにあるのです。
大人の方々、日々の職場で見る光景はいかがですか。ストレスで胃が痛くなるということもありますでしょう。かつては若々しかった私達の肉体の変化を私達は目の当たりにしています。親しい友人がここ数年、何人も亡くなってしまった。齢を重ねるということは、力を失う自分の姿を見続けるということです。これら私達がいつも見ている光景に対して私達は何を考え、どのようにそれを受け止めるのでしょうか。

Sunday Sep 09, 2018
『重荷はこうして負います』大倉 信 師
Sunday Sep 09, 2018
Sunday Sep 09, 2018
重荷を負うということは簡単なことではありません。しかし、私達は荷を背負い続けることが求められ、その荷の重さに押しつぶされないことが期待されます。その荷を降ろしたり、誰かに委ねたりすることは、その荷の重さに屈してしまうことで、「この人は責任や義務が果たせなかった」と評価されることを私達は恐れています。
それよりも、それらの荷を負い続けてゴールインするということが美談として、語り継がれ、そのように生きた人生は称賛される傾向があります。
荷を降ろすことを私達はとまどいます。なぜなら「降ろした」後にどんなことが待ち受けているかを私達は知らないからです。そして「降ろす」ということは、たとえ荷を下ろしても、その荷はそこにそのままあるわけで、それでは何の解決にもならないと私達は思うからです。
さらには荷を降ろすことは時に、私達の「プライド」が許しません。そうすることにより、人からどう思われるかと私達は考えます。「この荷は耐えられない」と明らかにすることは、自分の敗北を認めることと思われ、それは私達のプライドが許さないのです。
ここまで、荷を「おろす」か「おろさない」か二つの選択肢をお話ししました。私達は何か問題にぶつかりますと、その視野がとても狭くなる傾向があります。そうです、この問題の解決に対して「あれか、これか」と二つの選択肢しか私達は考えられなくなることがあるのです。
しかし、皆さん、私達が抱える問題の多くは本来「あれか、これか」というようなものではなくて、その解決のためには「あれか、これか、それともこのことか」と第三、第四の道があるものです。
ゆえに、今日は私達が日々負っている荷について、私達が取り得る第三の選択肢について聖書が記していることをお話しします。

Sunday Sep 02, 2018
神に喜んで頂く生き方』大倉 信 師
Sunday Sep 02, 2018
Sunday Sep 02, 2018
沖永良部という離島の教会におりました時、その島ではじゃがいもを生産・出荷していました。その季節になりますと「これが今年の初ものです」と言って島の人が届けてくれました。私達が何かをいただく時、それが「初もの」であると聞くと、喜びと感謝がさらに大きくなります。
それは初ものが特別おいしいということよりも(確かにそれもあるでしょうが)、自分の畑で獲れた最初のものを手にした時に、その方が私達の顔を思い浮かべてくださって、「これはあの人にまず食べてもらおう」と思ってくれた、それが私達は嬉しいのです。私達はその方の心に感謝し、それを心から喜びます。