Episodes

Sunday Jan 13, 2019
『神のはたらかれる余地を確保する』大倉 信 師
Sunday Jan 13, 2019
Sunday Jan 13, 2019
怒りと復讐の心がある時に、私たちは完全にそれらの感情に支配されています。すなわち、私たちはそれらの苦い思いの奴隷となってしまうのです。朝から晩まで、その人のことを思うと、その顔を思い起こすと、脈拍は増え、心が騒ぎます。
ああ、悲しいかな、その相手は今頃、私達の気持ちなど露知らず、安らかに昼寝しているかもしれません。楽しく旅行をしているかもしれません。しかし、私達の気持ちは怒りに燃え、体はそのストレスにむしばまれ、時には心身を病んでしまうのです。そんな私たちの状態を自由と呼ぶことはできません。それはあたかも見えないロープで心身共にがんじがらめに縛られたような状態なのです。

Sunday Jan 06, 2019
Sunday Jan 06, 2019
私達の仕事、労働に関して言えば、これから私達が直面することはAI (Artificial Intelligence)という人工知能を有するコンピューターがますます導入されます。そしてこのAIにより、今私達が従事している仕事の多くは10年後にはなくなると言われています。
英オックスフォード大学で人工知能の研究を行うマイケル・A・オズボーン准教授によると、今後10年から20年程度で、米国の総雇用者の約47パーセントの仕事がコンピューターによって自動化されると言われています。あのビル・ゲイツは言いました。「創造性を必要としない仕事はすべてテクノロジーによって代行される」。
最近はチェックを自分のアカウントに入金するために銀行にわざわざ行く必要がなくなりました。全てスマホでできるのです。そんなことでしばらく銀行に行っていなくて、先日、行ってみましたらブースの半分が取り除かれそこには二つの大きなATMが置かれていました(スーパーもそうでしょう)。
そのマシンによって、これまでテイラーがしていてくれたことが出来てしまうのです。キャッシュは全て機械の中なのですから、このことにより銀行強盗の防犯になるでしょうし、機械は文句は言いませんので雇用主にはメリットは多いことでしょう。しかし、親しくしていたテイラーはまだ雇用されているのだろうかと心配になりました・・・。

Sunday Dec 30, 2018
Sunday Dec 30, 2018
『神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている』(ローマ8章28節ー30節)。
この言葉は多くの方達の拠り所として、愛されてきた聖書の言葉です。しかし、同時にこの言葉は誤解されている言葉でもあります。その誤解はどこからくるかと言いますと、私達が考える「益」と神様が考える「益」の違いにあります。
多くの場合、私達は何の疑いもなく、「自分の願い」と「希望」を「自分の益」と考えています。しかし、それは必ずしも「神様が考える益」とは同じではありません。
このことゆえに「自分が考える益」が成就しないと分かると私達は「ほら、みろ、神などはいない。祈っても仕方がない」と考えます・・・。
冷静に考えてみましょう。自分の願いと希望が叶うということが、絶対に自分の益となるのだという考えは本当に正しいのでしょうか?神とは私達の願いと希望を叶える道具なのでしょうか?もし神が私達の道具であるのなら、もはや私達はその存在を神などと呼ぶことはできないのです。道具は私達の手の中に納まるものだからです・・・。
今日はローマ8章28節の言葉を自分の願いが叶わなかったモーセの生涯と照らし合わせて考えてみましょう。

Sunday Dec 23, 2018
『飼葉桶と十字架』大倉 信 師 "The Manger and The Cross" Pastor Makoto Okura (bilingual)
Sunday Dec 23, 2018
Sunday Dec 23, 2018
今日、「クリスマス」と本来の呼び名をせずに「シーズンズ・グリーティング」と呼ぶ風潮がこの国に蔓延しています。その心はヘロデ王の心に結びついていきそうです。「イエス・キリスト、そんな存在が俺の人生に入ってきたら、俺は自由に生きられなくなるではないか」。とんでもない!そのことゆえに、私達は自由を失っているのです。
今日、人はフェイスブックで何人の友達がいて、その人達がどれだけ「いいね」を押してくれるのか、そんなことで自分がどれだけ価値あるのかと知ろうとしています。私達は既に知っているはずです。そんなはずはないだろうと!しかし、この私達の心はそのままピラトの心につながっていませんか。
ヘロデとピラトと同じ轍を踏まないために・・・。

Sunday Dec 16, 2018
『歴史を貫いた計画』大倉 信 師
Sunday Dec 16, 2018
Sunday Dec 16, 2018
「そして、言葉は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1章14節)。
ここには「言葉は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」と書かれています。少し説明がいるかと思いますが、この「言葉」とは「イエス・キリスト」のことをあらわし、そのイエスが人となり、私達の住む地に宿ったということです。そして、私達はこの出来事をクリスマスと呼んでいます。
このヨハネによる福音書に書かれている「宿った」という言葉を聖書のもともとの原語であるギリシア語から紐解きますと、その意味は「幕屋を張られた」ということになります。このことを踏まえて言いますならば「神と共におられた言葉、すなわち神と共におられたイエス・キリストは私達の世界に幕屋を張られた」ということになります。そして、それは神の一人子イエス・キリストが本腰を入れて、私達と同じように、この世界で起きること身に負われるという覚悟のあらわれでした。
それにしても「幕屋」と言われても私達はピントときません。しかしこの「幕屋を張られた」という言葉をヨハネがあえて使ったということには、とても深い意味があり、その背後には長い聖書の歴史がありました。

Sunday Dec 09, 2018
『God's Love for the World』本多 一米 師 Pastor Ichibei Honda
Sunday Dec 09, 2018
Sunday Dec 09, 2018
今日はヨハネの福音書3章16節より本多一米牧師がメッセージを取り次ぎました。

Sunday Dec 02, 2018

Sunday Nov 25, 2018
『託された時間と賜物』大倉 信 師
Sunday Nov 25, 2018
Sunday Nov 25, 2018
『 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある』(伝道の書3章1節)
私達がめぐってくる季節に対していだく思いと願いは、冬に関して言えば「雪が積もって嫌だ」とか「いや、この寒さが気持ちいい」とか、夏に関して言えば「汗だくになるのが嫌だ」とか「いや、この暑さがたまらない」という程度です。
しかし、季節には私達が「いいとか、いやだ」とかいう以上の意味があります。もし、いやだからといって冬や夏が季節から外されたり、その順番を入れ違えたら、この世界はどうなりますか。おそらくこの世界のあちこちで私達が想像もしていなかったような自然災害が起きて私達、人類の存続すら危ぶまれるでしょう。
季節の関わり合いと、その意味の全体は私達には知りえないものです。しかし、確かにそこには順序があり、全体の調和があり、それぞれの四季でなされる自然界の現象の一つ一つには意味があるのです。

Sunday Nov 18, 2018
『わが魂よ、主をほめたたえよ!』大倉 信 師
Sunday Nov 18, 2018
Sunday Nov 18, 2018
世界にあって、日本では見ることができない建造物があります。それは「城壁」です。あえて言えば日本の城には城壁がありますが、その城壁はその地域の藩主がいる城を囲ったもので、町全体が城壁で囲まれているというような場所は日本にはありません。しかし、世界に目を向けますと、このような場所がたくさんあります。万里の長城というのはその最たるものでしょう。
このことが何を意味するのか、言うまでもありません。これらの城壁は外部からの浸入者を防ぐために造られたのです。そうです、世界の多くの国々は互いに地境によって区分された国々であり、日本という国は海に囲まれた島国なのです。地境であるということは、その境をまたいで他国人が自分達の領土に入ってくる可能性があるということで、それが友好的な隣人であるならまだしも、奪略とから殺戮というような理由で彼らが浸入してきたというのが多くの国の歴史なのです。
幸いなことに日本の近海は時に荒波にもまれ、そのような他国人の侵略をほとんど受けませんでした。幕末に欧米の列強が日本を侵略するのではないかという恐れが蔓延しましたが、それも幸いなことに起こりませんでした。それに対して地続きで他国や他民族とつながっている国地域では有無を言わずに襲われたり、最悪の場合はその住民全てを虐殺、あるいは女性、子供達、財産を根こそぎ略奪されるというようなことが度々あり、それ故に彼らが城壁を造るということは必然だったのです。
そして、その「城壁ありき」という状況こそが私達が向き合っている聖書の世界なのです。

Sunday Nov 11, 2018
『目から鱗を取り除きましょう』大倉 信 師
Sunday Nov 11, 2018
Sunday Nov 11, 2018
現在、この国では互いの違いというものに人々の思いが向かっています。そして、その違いが憎悪となったり、排斥となったりしています。確かに私達は皆、異なります。しかし「我々は神の前に互いに罪人である」ということにおいては同じ所に立つことができるのです。
すなわち、私達は誤り多き者であり、自分の我欲に突き動かされる者であり、失敗を犯すものであり、独りよがりであるということ、このことゆえに私達は同じなのだということに私達の思いが行く時に、初めて、私達の間に理解と共感というものが生まれてくるのです。そして、この人に対する視点をイエス様は私達にも望まれているのです。