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Sunday Sep 23, 2018
『婚宴に備える教会』大倉 信 師
Sunday Sep 23, 2018
Sunday Sep 23, 2018
‟もし教会には偽善者が満ちているという理由であなたが教会に行かないのなら、教会は聖徒達が居並ぶ博物館なのではなく、罪人のための病院であるということを思い起こしてください”。
サドルバック教会の主任牧師であるリック・ウォーレン牧師はこんな一文をその著書に記しています。
「あなたは一生かかっても完全な教会を見つけることはできないでしょう。神がそうしておられるように、あなたも不完全な罪人たちを愛するように召されているのです」 (「パーパス・ドリブンチャーチ」)
『イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです』(イエス・キリスト)
Monday Sep 17, 2018
Monday Sep 17, 2018
子供達、若者達、これからの皆さんの人生は時に心が揺さぶられるでしょう。なぜなら、皆さんはこれから色々なものを見聞きすることになるからです。
皆さんよりかっこいい人、かわいい子、皆さんより足の速い子、皆さんより成績のいい子、皆さんよりクールなスニーカーをはいている子、きりがない。あのスパイたちが敵は自分達をいなごのように見ていると言ったように、自分が友達からどう見られているか、これらのことは君たちの人生につきまとうでしょう。
皆さんはこれらのことに振り回されて人生の大半を過ごすことになるかもしれません。そうです、皆さん自分の人生をコントロールするのではなくて、これから見聞きするものが皆さんの人生をコントロールする可能性が大いにあるのです。
大人の方々、日々の職場で見る光景はいかがですか。ストレスで胃が痛くなるということもありますでしょう。かつては若々しかった私達の肉体の変化を私達は目の当たりにしています。親しい友人がここ数年、何人も亡くなってしまった。齢を重ねるということは、力を失う自分の姿を見続けるということです。これら私達がいつも見ている光景に対して私達は何を考え、どのようにそれを受け止めるのでしょうか。
Sunday Sep 09, 2018
『重荷はこうして負います』大倉 信 師
Sunday Sep 09, 2018
Sunday Sep 09, 2018
重荷を負うということは簡単なことではありません。しかし、私達は荷を背負い続けることが求められ、その荷の重さに押しつぶされないことが期待されます。その荷を降ろしたり、誰かに委ねたりすることは、その荷の重さに屈してしまうことで、「この人は責任や義務が果たせなかった」と評価されることを私達は恐れています。
それよりも、それらの荷を負い続けてゴールインするということが美談として、語り継がれ、そのように生きた人生は称賛される傾向があります。
荷を降ろすことを私達はとまどいます。なぜなら「降ろした」後にどんなことが待ち受けているかを私達は知らないからです。そして「降ろす」ということは、たとえ荷を下ろしても、その荷はそこにそのままあるわけで、それでは何の解決にもならないと私達は思うからです。
さらには荷を降ろすことは時に、私達の「プライド」が許しません。そうすることにより、人からどう思われるかと私達は考えます。「この荷は耐えられない」と明らかにすることは、自分の敗北を認めることと思われ、それは私達のプライドが許さないのです。
ここまで、荷を「おろす」か「おろさない」か二つの選択肢をお話ししました。私達は何か問題にぶつかりますと、その視野がとても狭くなる傾向があります。そうです、この問題の解決に対して「あれか、これか」と二つの選択肢しか私達は考えられなくなることがあるのです。
しかし、皆さん、私達が抱える問題の多くは本来「あれか、これか」というようなものではなくて、その解決のためには「あれか、これか、それともこのことか」と第三、第四の道があるものです。
ゆえに、今日は私達が日々負っている荷について、私達が取り得る第三の選択肢について聖書が記していることをお話しします。
Sunday Sep 02, 2018
神に喜んで頂く生き方』大倉 信 師
Sunday Sep 02, 2018
Sunday Sep 02, 2018
沖永良部という離島の教会におりました時、その島ではじゃがいもを生産・出荷していました。その季節になりますと「これが今年の初ものです」と言って島の人が届けてくれました。私達が何かをいただく時、それが「初もの」であると聞くと、喜びと感謝がさらに大きくなります。
それは初ものが特別おいしいということよりも(確かにそれもあるでしょうが)、自分の畑で獲れた最初のものを手にした時に、その方が私達の顔を思い浮かべてくださって、「これはあの人にまず食べてもらおう」と思ってくれた、それが私達は嬉しいのです。私達はその方の心に感謝し、それを心から喜びます。