『増し加わる恵み』 大倉 信 師

October 29, 2017

ユダヤの知恵文学の一つにシラ書というものがあり、そこにはこんなことが書かれています。

「はじめに神は人を創造され、その人を性(さが)の力に委ねられた。すなわち、それは我々が欲するならば神の戒めを守ることができるということを意味する。このことを実現するのは我々の忠実な決断と実行による。神は我々に悪をなすなと命じ、我々が罪を犯す免許を与えてはいない。神は我々に律法を防腐剤として与え、もし我々がその律法に心を傾けるのなら、悪の衝動に陥ることはない。神は人を創造された時、人の内に愛情と気質とを植えつけ、聖なる知性を我々の王座につかせられた」

書いていることは正論でありましょう。しかし、実際のところこのことは頭で分かっていながらも実行することはできないものです。そのことをしっかりと自覚していたのがパウロであり、そんな内なる自覚を隠し通すこともできたでしょうが、パウロはその心の中の赤裸々な自分の姿についてローマ7章で書いています。聖書は建前の書ではなく、本音が満ちている本です。

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『キリストと共に死に、キリストと共に生きる』 大倉 信 師 (日英両語 Bilingual Message “We die with Christ and We live with Christ”)

October 22, 2017

「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終りがあり、生きている者が、それを心に留めるようになるからだ」(伝道の書6章2節)

イスラエルの三代目の王ソロモンは祝宴の家に行くよりも、喪中の家に行くことを望みました。なぜなら、そのことによって自分には終わりがあるということを知るからです。そして、このことに対して備えよと聖書は私たちに語りかけます。その備えは私達がどこに葬られるかということではなく、あなたはその時、どこに行くのかということであります。聖書の約束は私達、キリストにあって死んだ者は、彼と共に葬られたのであり、その葬られた私たちはキリストと共に新しい命に永遠に生きることができるというのです。

「あなたがたは代価を払って買い取られたのだ。それだから、自分の体をもって、神の栄光をあらわしなさい」(Ⅰコリント6章20節)

私達はキリストにあって罪に死んだ者なのだとパウロは言います。そして、今はこの世界を神と共に生きている者であり、故に私達はキリストにあって代価を払って買い取られた自身をもって神の栄光をあらわすべく今を生きる者であると聖書はいいます。

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『よどんだ心はきよまるのか』 大倉 信 師 (日英両語 Bilingual Message “Stagnate Heart will be cleansed”)

October 15, 2017

以前、私がまだ小学生の頃、私は近くを流れる川でよく泳いだり、魚をとって遊びました。40年以上も前のことなので、川もある程度は澄んでいました。ある日のこと、いつものようにその川に遊びに行くと、いつもは澄んでいる水が茶色に濁っているのです。何事かと思いきや、それはその川の上流で工事がなされており、大量の赤土が川に流れ込んだためであるということを知りました。その日は川で遊ぶことなく家に帰ったことを覚えています。そして、あちこちに土砂により水の中の酸素がなくなってしまったのでしょうか、魚達が水面にパクパクとその口を広げていました。中には白い腹を見せて水面に浮かんでいるものもいました。

その光景はアダムを源流とする今日の私達の世界のようにも思えます。日毎の生活を生きるのがシンドイ、霊的な精神的な呼吸困難に陥ってしまう。そして、聖書が書いているように、そんな私達の終局は死なのです。

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『祈りは神との対話』 大川道雄 師

October 8, 2017

人は祈ります。人だけが祈りをします。誰に祈るのでしょうか?  本当に誰が聞いてくれるのでしょうか? 祈りとは神がそこにおられ、祈りに耳を傾けていてくださるという<自覚>と<確信>です。

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『私達が求める平和と希望とは?』 大倉 信 師

October 1, 2017

平和と唱えられるもの、希望と呼ばれるようなものが私達の世界にはあります。しかし、その多くは何と時間的に、地理的に、状況的に限定的なものでしょうか。それらに対して、キリストがくださる平安はこの世のものとは異なり、その希望は決して失望に終わることがないのです。

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